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ひでをの音楽夜噺 Vol.43 「いま、あらためて・・・美しい歌をありがとう。」


 一昨夜、待望の映画「ジョージ・ハリスン〜リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を観た。

 最後は間違いなく大泣きすると予測したが・・・意外にも泣かなかった(笑)

 いい意味で、淡々とジョージ・ハリスンがどの様な人だったのかを描いた映画だったからだ。

 お涙ちょうだい的な安っぽい部分は皆無であった。

 さすがは名監督マーティン・スコセッシ。

 観終わった感想として、ちょっと小難しい話になるかもしれないが、「俗を超越する」という精神について考えさせられた・・・と言うか、ジョージ・ハリスンという音楽家は、「超越することを死ぬまで欲っしながら人生を過ごした人だった」ことがよく分った。

 ここでひとつのキーワードがある。

 「欲っする」ということ。

 まるで禅問答の様な話になってしまうが、「超越する」ことは、きっとそれを「欲っする」限り、恐らくは「超越する」ことは無理なのではないか・・・。

 ジョージは、もちろんそんな事は百も承知だった。

 しかし、アタマで分かったからと言って、その様になれるワケではない。

 いわゆるインド哲学で言うところの「無の境地」の様な世界だと思う。

 まったくもって、そんな世界を、この様な「俗」な世間に生きる輩が簡単に体験出来ることじゃなかろう・・・で、恐らくジョージも最後までそうだったのだと思う。

 彼のソロアルバムを時系列で聞けば分かるが、ビートルズ中期からソロになったある時点まで、彼はシタール(インド音楽を代表する弦楽器)を弾いている。

 ジョージと生涯を通じて深い親交があったことで知られる世界的なシタール奏者ラヴィ・シャンカールに、ある日ジョージが言われて、ハッと気付いたそうだ。

 人はぞれぞれ違う文化で育っているので、貴方は貴方の文化の中にある道具と表現方法で、貴方が目指す所の音楽を創造するべき・・・

 そんな意味のことを言われたらしい。

 そして、彼がシタールの演奏を止めたのと時期を同じくして、活動内容にもちょっとした変化が起こっていたのだ。

 映画のタイトルにもなっているあの名盤「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」の後、当時はとんでもない駄作とこき下ろされたアルバム「ダークホース」発表、そして同時に行われたツァーである。

 神のみぞ知る・・・みたいな境地を目指し、慈悲に溢れた名曲を世に送り出していたジョージが突然とんでもなく俗っぽい活動を始めた・・・当時、失望したファンも多かったことだろう。

 当時、オレは中学生だったが、同じ印象を抱いたのを記憶している。

 しかし、映画を観て初めて思ったが、ジョージはそんな評価を受けるのは十分に承知の上で、いわゆる「道化師」をあえて演じたのではないか・・・。

 そして、ここがちょっと複雑な話なのだが、ファンサービスでもなく、一種のメッセージでもなく・・・オレが推測するに、多分、一番の目的は自分自身に一種の修行を課すためだったのではないか・・・そんな風にオレは思った。

 要するに、かなり複雑な人だったのだろう。

 ジョージの生前をよく知る多くの人々のインタビューが映画の中にはしっかりと収録されているが、その殆どの人々が共通して語るのは「ジョージは二面性を持つ人だった」ということ。

 思ってみれば、17才という未成年時代からビートルズのメンバーとして活動を始め、いきなり世界の大スターへの道を駆け上がり、その後もすっと死ぬまで名高い人気者の一人としての人生を、彼は、ある意味、「余儀なくされた」のだ。

 本当は、そんな「俗」な世間を捨てて、インドの山奥にでも篭って死ぬまで修行を続けたかったのかもしれないし、しかし、先述ラヴィ・シャンカールが彼に語った様に、自分を育んだ文化を最後まで捨てることなくその中で自分の人生を生きるべく葛藤を続けたのかもしれない。

 ちょっと視点を変えてみよう。

 もちろん映画の中にもしっかりと登場するが、ジョージを語る時に、絶対に避けることが出来ないのが、あのギャグコメディの名作「モンティパイソン」である。

 大金持ちのジョージにとって、あの映画スタッフへの資金供与は人生最高の道楽だったと思う。

 英国ならではなのとんでもない「ブラックな笑い」に対するジョージの愛着とこだわりは、インド哲学の瞑想の様な世界とは対極にあるかもしれない。

 しかし、きっと彼は、あのブラックな表現によって「笑い飛ばしてしまう」行為で、ある意味、「俗」な世間を超越しようとしたのだろうということ。

 毒をもって毒を制するってヤツである。

 

 ところで。

 

 映画は長い。

 210分である。

 そんなに暇ではないオレは、映画館に足を運ぶ前に知って、さすがにちょと引いた(笑)

 こんなに長い映画になったのは、もちろん素材がとても豊富だったことは一番だろう。

 しかし、もうひとつ。

 きっと、タイトルにあるジョージの曲名「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」・・・つまり、物質文明に囲まれて長い一生(ヒトの人生、普通はみんな長いワケだ)を過ごしたジョージの人生を淡々と描くことで、逆説的に「リビング・イン・ザ・スピリチュアル・ワールド」という何かを我々に印象づけるためでもあったのではないか?

 換言すれば、スコセッシは、マテリアルな世界に生き続けたジョージ・ハリスンが目指したスピリチュアルな世界を、映画という表現方法によって、あるいはジョージに代わって、丹念に描き出そうとした・・・そんな印象も強く受けた。

 で、そのスピリチュアルな世界は、映画を観れば理解出来るのだろうか?

 無理だ(笑)

 いやいや・・・。

 要するに、そんな崇高な「無の境地」の様な世界が、1本の映画を観るくらいで分かってしまうワケはなかろう・・・当たり前。

 しかし、だからこそ、この映画は深い。

 ま、オレなんかがそんな御託を宣ったところで、笑っちゃうけどね!

 

 最後に。

 

 オレにとってのジョージ・ハリスンという人は・・・

 ずっと昔から・・・

 「最高に美しい歌」を紡ぐソングライター。

 そして「最高に美しいギター」を奏でるギタリスト。

 映画「ジョージ・ハリスン〜リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」。

 彼のファンでない人が観ても、きっと素晴らしい作品だと思う。

 そして、こんなに素晴らしい作品に仕上がったのは、

 死ぬまでずっと、色々な葛藤を抱えながら「俗」な世間を超越しようとした人だったからこそ創造出来た、そして我々に遺してくれた・・・

 「美しい音楽」のお陰なのだと思った。

 (ひでを・記)

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